Inspired by Nikkienews 20060405 経済教室 日本を磨く
民主主義・市場システムの導入が進む今日、公共精神の強化が叫ばれる。猪木武徳国際日本文化研究センター教授は、「民主社会や市場経済で社会的紐帯(ちゅうたい)が失われ、バラバラになった個人が、他社や未来への配慮に疎くなり「個人主義」の殻にわが身を閉じ込めてしまう」と指摘。フランスの政治思想家A・トグヴィルの「個人主義は公的な徳の源を枯らす」という考えを引用し、公共精神がデモクラシーの土台として重要であることを示唆している。氏は、民主制と市場システムによって人々が狭隘(きょうあい)な世界に陥らないよう、教養教育など公共精神を醸成する仕組みを提言する。そのために「知的エリート」を育成せよという。
しかし、エリート育成は封建社会の中では機能するモデルであったが、知識社会でも同じように機能するものであろうか。意思決定の基準が、公共精神を土台とする民主主義によって定義されるものであろうとしても、土台が磐石でなければ、大勢をしめるポピュリズムに引っ張られて基準が低下するものではないか。権威によって、公共性の正当化を図らないとすれば、どのような共感のメカニズムが求められるのだろうか。
とくに、クリティカル・マス・モデル(臨界質量)を超える概念の導入が求められる。これは表立って何かが進行していることが見て取れないときでも、ある変化が一定の臨界点(限界)に達するや否や、全体が突如はっきりした大転換を来たすことがあるというもの。共通の関心を刺激しあおうとする自発的な研究会で、会を重ねるごとに参加者が減る現象も、人々が他の人々の出方に依存して行動する例である。このような現象は、公共的な利益を毀損(きそん)する方向に作用する。
ここで、「公共哲学」という概念に触れてみたい。この概念は、大学ではすでに学際的な研究分野として注目され、講義として取り組む大学も多いようである。このなかで、『公共哲学とは何か』(ちくま新書)の著者東京大学大学院総合文化研究科教授、山脇直司氏は、公私二元論から三元論へのパラダイムシフトが重要と主張する。
「governmental やofficial という意味での「政府の公」と、市民、国民、住民の総称としての「民の公共」と、私有財産とか営利活動とかプライバシーなどの「私的領域」の3つを区別しつつ、その相互作用を考察するような三元論的なパラダイムを、実体概念としてではなく関係概念として捉えるという見方が必要」
このパラダイムによって、NPO、NGOの活動も正当化されるというが、加えて、「民の公共」を担う企業家の存在も正当化される。この概念には、引き続き注目をしたい。
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