Inspiered by 東京大学大学院 山脇教授
山脇氏の公共哲学論に刺激をうけてもう一稿。まず、公共性の定義について。
かの有名なハンナ・アーレントというユダヤ系ドイツ人の女性哲学者は、ちくま学芸文庫から出ている『人間の条件』という本の中で、次の2つの意味でpublicness を定義しています。その一つは、「万人によって見られ開かれ可能な限り、最も広く公示されている、現れ」すなわち「公開性」という意味、もう一つは、「私たちすべてに共通する世界」という意味です。この際、ハンナ・アーレントは非常に実存主義の影響を受けていましたから、「私たち」という概念は均質な集合体ではなく、それぞれ実存的な独自性を持った人々の集合体であって、それを前提にした上で、私たちすべてに共通する世界、common world をパブリックネス(公共性)と彼女は定義したことが忘れられてはなりません。「一般の人に関る」という意味と、「公開の」という意味に相当するでしょう。
これを受けて、山脇氏はガバメントとプライベートとは別の、「公開されたCommon」という三つ目の主体者を意識せよとの三元論を打ち出している。さらに、存在論的な掘り下げとして、公共哲学のあり方を提言している。
「戦前に美徳とされた「滅私奉公」(個人を犠牲にして公に奉仕する)という「人間―社会」
観でも、「滅公奉私」(これは日高六郎さんが1980 年に岩波書店から出した『戦後思想を考える』で使った言葉ですが)、つまり他者感覚を喪失した「人間―社会」観でもなく、「活私開公」という人間観、つまり、個人一人一人が活かされながら民の公共を開花させ、政府の公をできるだけ開いたものにしていくような「人間―社会」観が必要となってきます。そして、それを哲学的に存在論的に掘り下げていくのが公共哲学の課題の一つとなるでしょう。これこそ、多次元的で応答的な「自己―他者―公共世界」理解として打ち出したいと思っています。これは、いわば「関係主義的な個人主義」の立場です。アトミズムでもなければ、共同体主義でもない関係主義は、ハイデッガーやアーレントが打ち出した「人間―社会」観。この考えは、ローカルからグローカルへの進展が望まれる現世において重要な概念です、地球全体が直面している環境、平和、福祉、貧困、平和などのglobal issue に積極的に取り組む公共哲学が、「グローカルな公共哲学」の理念であろうと思います。」
さらに、今後の公共哲学を学問としてどのように追求するべきかを述べている。
学問史は100年単位に大きな進化を遂げている。200年前、1820-30年頃にヘーゲルは、哲学によって諸学問を統合するという学問理念を打ち出しました。政治も経済も芸術も宗教もみな、哲学の中にあるのであって、哲学が諸学問を纏め上げるという哲学中心の学問理念です。しかし、ヘーゲルの哲学はあまりにも観念的すぎたせいか衰退し、諸学問の実証主義化や専門化が進みました。その100年後、1919 年にマックス・ヴェーバーは、『職業としての学問』という講演のなかで、「学問の専門化は時代の宿命であり、学者はそれに耐えなければならない」という醒めた学問観を打ち出します。その結果、ここ20世紀は専門化による遺産を生み出しました。一方で、その限界やタコツボ状態を突破する必要性があることも確かです。共通のトピックやイシューを設定し、シリアスな課題と取り組むために協働しあうという「ポスト専門化」時代の学問理念を打ち出したいのです。
同氏はそのために、「理想主義的現実主義」(またはその逆)の精神をもって望むとまとめている。一橋大学野中教授の主張にもつながる同氏の取り組みに、今後も注目していきたい。
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