玄侑宗久さんの「禅的生活」にある、六不収(りっぷしゅう)という話のなかで、人間の感覚には、色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)を「六境(ろっきょう)」という対象があるといいます。六境を捕える感覚器が、「眼、耳、鼻、舌、身、意」。仏教では、この順番で社会性が高いとされているそうです。
「その証拠に、明るさや大きさの単位、あるいは音の大きさを示す単位は各国にあるが、においの単位はまだできていない。」 (『禅的生活』)
もちろん、この本では第六感をも超えた、感覚ではとらえられない世界、言葉では表せない世界の重要性を伝えているわけですが・・。感覚を言葉で表す挑戦と、言葉では表せない「一無位の真人(いちむいのしんにん:様々な立場など社会的要素=位を離れた自分と対面する」境地に迫る挑戦。どちらも大事だということなのでしょうか。
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