Inspired by Nikkeinews やさしい経済学 メディア社会の輿論と世論
「竹槍訓練がどんなに不条理でそしてデタラメかを一切考えてみない世論が出来上がり、それに従わぬと近所づきあいから疎外されたり、非国民呼ばわりをされる世論では、社会生活は脅かされ、耐えがたいものになる」(今日出海『日本的世論』)
日本人は論理的判断と空気的判断のダブルスタンダードの下に生きている。二つの基準は現実には明確に分かれておらず、議論における言葉の交換それ自体が一種の空気を醸成し、最終的には論理や意見よりも「空気」が判断の基準になる、と山本七平は指摘している(『「空気」の研究』)。
「世論に基づく民主政治」が重要と言われるが、本稿は「そもそも世論調査というシステムは民主的だろうか」と問題提起する。たとえば、「調査の実施者が政治的必要に応じて争点を作らしてはいないか」「質問に答えて意見をまとめる能力は万人に平等か」「十分な情報を検討して熟考された見識と周囲に流された気分が同じ数値で均質化されるべきだろうか」・・・。
こうした世論への批判が困難な理由のもう一つは、ヨロンでもセロンでもある日本型世論のあいまいさにあると言われる。福沢諭吉は、「世論(セロン)=世上の雰囲気,民衆感情, popular sentiments」と、「輿論(ヨロン)=責任ある公論,公的意見, public opinion」を区別しようとしていたという(現代では一般に同じものをさす)。
混合の契機となったのは、1925年普通選挙法成立による「政治の大衆化」。理性的な討議より情緒的共感を重視する風潮が生まれる。本稿では、「私たちはいまだに輿論の世論化という前世紀の潮流に漂っている」と指摘する。「不惑世論と公儀輿論」という標語を今一度掲げ、政治的正当性の根拠である輿論と、無軌道な暴走を警戒すべき世論を区別せよとの提言は、心を揺さぶる深いメッセージである。
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