日経新聞 やさしい経済学 個人の再発見 宇野重規東大准教授より
トクヴィルは、個人主義と利己主義は異質のものと捉えた。利己主義は、他者をおいても自らの利益を追求しようというもので、個人主義は自分自身の狭い世界に閉じこもり、他者や外界の関心を失うことを意味する。利己主義はいつの時代にもあるが、個人主義は伝統的な社会が解体した結果生まれた、民主的社会に固有の精神であるという。トクヴィルは、この個人が孤独のうちの閉じ込められてしまう危険性にいち早く警鐘を鳴らした人物である。
一方で、他者から孤立しがちな存在であるにもかかわらず、他者のことを気にする存在でもあるという。「いかなる他者も自分と同類に過ぎないと考える個人は、それゆえにむしろ自らと同類の集合である社会の多数派の声を無視することができないのであり、同類と自分とのわずかな違いが気になる」
うーん、矛盾してるけど、そうですね「周囲へ無関心となり孤立しながら、同類に対する線鋭意かした比較の意識をもつ両義性」・・、そういうところがあるかもしれませんね。本記事が指摘する「冷淡さの裏には他者や世間に対する激情が秘められている」という感覚、分かります。
いまや、「重たい近代」は終わりを告げ、「軽い近代」へと突入しつつある。イギリスの社会理論家ジークムント・バウマンは『リキッド・モダニティ』のなかで、このように解説している。
『重たい近代とは、規模にこだわった時代、“大きなことはいいことだ”の時代である。巨大な工場で大勢の労働者が規律正しく働くことが理想とされたハードウェアの時代。
これに対し、軽い近代とは、浮遊し、自由に移動できることこそが理想とされる時代である。資本や情報は地球規模で空間・時間をすばなくかけめぐる。』
問題は、流動化が自由と選択の可能性を拡大する一方で、不安定性の増大ももたらすことであるといいます。バウマンは、重たい近代における社会モデルから、流動化、液状化した現代社会での社会モデル、とくに個人の生のあり方を探ろうとしているようです。
「どの時代にも、実現されるべき目的があり、めざすべき社会のモデルがあった。これに対し、軽い近代では、すべてが個人にゆだねられ、倫理的に重視されるのは個人の選択や差異の尊重ばかりである」、そうなると、個人化の意味も変わるといいます。
かつて人間は、共同体への依存、相互監視、強制の網の目からの解放に熱狂したが、すべての伝統的規則が侵食された現在、むしろ個人は自分が選択する際の基準の不在に困惑している。アイデンティティはもはや与えられるものではなく、獲得するもになっている。現代社会のキーワードのひとつは、「居場所」であり、誰もが自分のおさまるべき場所を捜し求めている
同じことをドラッカーも指摘していました。これまでは、Consumer Identityは固定的であった、多元的な知の時代には、Identityを選択することができる、Reflection(内省)によって、自らをデザインせよ(=Self Design)と。
本記事では、不安や不満があっても個別化するばかりで脱却することができず、状況を悪化させていると指摘。「今求められているのは、個人的な問題に見えるものの中に、社会的な側面を見出し、一人ひとりの個人の悩みを週案的な課題として問い直すための仕組みや空間を構築することであろう」としています。問題は、そのような仕組みや空間をいかに流動化社会で確保するか、コミュニティ・デザインや組合活動に示唆のあるメッセージです。
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