Inspired by Nikkeinews やさしい経済学 21世紀と文明
このコラム、要注目です。
■差異性と同一性
ハンチントンが掲げた「文明の衝突論」、これに対抗し、超えようとする議論は1990年代後半からいくつか提出されている。例えば、元イラン大統領のセイエド・モハンマド・ハタミが提唱した「文明の対話」論。98年の国連総会で演説、99年にはローマ法王との会談でその実践を試みた。文明間の対話の促進は、対話を回避できるという彼のビジョンは国連でも正式採用され、2001年は「国連の文明の対話の年」とされた。しかし、皮肉にもこの年に9/11事件が起こり、対話理論は一気に存在感を失った。
最近では、『帝国以後』の著者、エマニュエル・トッドが「文明の接近」論を展開。人口学者であるトッドはイスラム諸国の出生率の低下や女性識字率の上昇に着目し、現在のイスラム諸国が近代化への移行期であると分析。欧米モデルへ「接近」していると論じている。イスラムを敵視せず、その理解によって更なる文明の接近を進める重要性を解く。一方で、この議論は欧米化=近代化という図式を全都市、世界が西洋的近代へ必然的に収斂されるという点で多くの問題をはらんでいる。
「価値相対主義」という考えがある。「あなたの考え方は、自分の考え方と異なるけれども、ひとつの考え方として認めましょう」という立場である。自分とは相いれない相手の考え方をとりあえずは承認するものの、価値観の共有にまでは踏み込まないのが相対主義である。
このような立場に立つと、異なる他者との「住み分け」を模索することになる。文明の衝突を避けるためには、相手の価値観には干渉しないが、私の価値観にも干渉しないでくれ、という態度が表面化する。差異性を強調すれば、世界はバラバラになる。しかし、同一性を強調しすぎれば、一緒になることの強制が起こる。私たちには、この二者択一しか残されていないのだろうか。
■究極の真理は一つ
この二分法を超えるヒントとなるのが、インド独立の父であるマハートマー・ガンディーの議論である。ガンディーは宗教と真理の関係を山登りにたとえて次のように言う。
「山の頂は一つだ。しかし、その登り道は複数存在する。これと同じで、世界の真理は一つであるが、そこに至るための道筋は複数存在する。この複数の「道」が世界各地の宗教であり、それぞれの宗教にはそれぞれの「真理に至る道筋」が存在する。しかし、究極の心理は山の頂と同様に一つであり、相対世界を超えた絶対レベルにおいて、すべての宗教は同じ一つの心理に行き着く」
ガンディは「真理」と「道」の違いを勘違いして、世界中で宗教対立が起きている現状を憂い、このように諭したとされる。宗教の単一論、特定宗教の絶対化、宗教の相対主義、いずれの理論も超越している。彼は絶対レベルにおける真理の唯一性と、同時にそれに至る道の複数性を認める「宗教の多一論」を主張したのである。
仏教に、「多即一、一即多」という考えがある。「多」なるものは「一」なる真理へと収斂し、「一」なる真理は「多」なる存在としてこの世にあらわれるという考え方である。ガンディーの思想はこの仏教思想と通底している。
■遠藤周作が描いた、アジア的認識論
『沈黙』などの著書で知られる遠藤周作。クリスチャンであった彼が晩年に描いた作品『深い河』の舞台はインド。主人公は、ヨーロッパの神学校に入学し、勉強に励むものの司祭たちが抱く「単一論」的な宗教観に納得がいなかくなる。周囲からは「信仰に必要な原則を見失っている」と批判されるが、「神はいくつもの顔をももたれ、それぞれの宗教にもかくれておられる、と考える方が本当の対話と思うのです」と言い放ち、一神教と多神教の区別を根源から批判して、ヨーロッパを去るという物語である。
最終的に彼はガンジス川の畔(ほとり)にある聖地ヴァラナシに行き着く。そこで、神、仏、アッラーといった真理の名勝をめぐる争いを乗り越えようと試みる。遠藤は、深い河を通じて、アジア的多一論を展開したのである。
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