野中先生、妹尾先生が、「動詞的人間」としてのアクチュアリティの重要性(傍観者としてではなく、主体者として在る状態)を説いている。背景には、日本語が規定する、日本人論があるようだ。
- 名詞を通して、主観を排除し時間的推移変動の観念を含まない安定的かつ客観的な対象である「モノ」として世界を認識する欧米人。述語(動詞)を通して、対象と主観を分離することなく抱合し、時間的に進行(主観が対象を通して経験)する不安定な自称である「コト」として世界の出来事に身体的に反応している日本人
- 場の持つ間主観性が根源的自発性を持つことを了解し、それが個に優越することをよしとする(集団に没する ※なお、個を前提とするチームワークという表現は日本語にはない)帰属型社会である日本と、公的な間主観性は存在するが、それが根源的自発性を持つ、つまり、個に優越することを認めない(集団に没することを潔しとしない、つねに集団の圧力を負として感じる)参加型社会である欧米
- 母親が、子供に「世界が名詞という概念から成り立っていること」を教え、子供のしつけとして外出を禁止し、個人の自由を奪うことがお仕置きになる欧米社会。「述語(動詞)を通して世界が関係性から成り立っていること」を教え、「出て行け」と集団からの外しをお仕置きとする日本社会
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