Inspired by Nikkeinews 20080404 経済教室 加藤寛
Japan Passing に続き、“JAPAIN”(苦痛に見た日本)。世界から見た日本の魅力がますます低下している。本記事では、政治に問題があると指摘するが、加藤寛氏は、背後にある官僚の存在を忘れてはいけないと主張する。
小泉改革で順調に官僚離れを進めたが、「格差」が広がったとの認識からか、阿倍・福田内閣で改革路線が官僚主導に代わってしまった失敗を反省しなくてはならない。
アラン・ブラインダー教授(米)は経済効率を尊重する「ハードヘッド」と経済社会の敗者に対する気配り、すなわち「ソフトハート」の相克を指摘した。私はそれを「経済算術」と「政治算術」といいかえたい。経済算術ではこうであると思っても、政治算術はそれとは逆に動くこともある。
たとえば、新銀行東京の問題のように、公共的な事業は赤字になってもよいと思いこんでしまうのは政治算術が優先されるから。日本を取り巻く経済・金融の環境に適応する制度の改革ができていないところにジャペイン現象が起きるのだ。
政治改革を考える際の二つの原則
- 「効率性は、公共性の基本である」
効率性を考えていることが公共性の第一原則であるべきである- 「公共性は効率性を損なわない限りにおいて認められる」
公共性のために、効率性が無視されてよいわけではない
では、効率性を軽視した公共性がまかり通るのだろうか。背景には、「官僚を味方ににひきいれ官僚パワーをかりるかどうかが、政治家の力量」とされるポリティカル・メカニズムにある。
政治家の強弱は、政治資金と戦略を練るための人材がカギを握る。資金は財界・組合から、人材は官僚と学識者から集められることになる。この官僚制度の打破こそが、ジャペイン脱却のカギだが、なんとこの制度、鎖国の江戸時代から続くメンタル・モデルだという。
明治期に武士(官僚)階級が天下ったとき、「役人が次々と民間にくだって、民間活力をそいで困る」という投書に、「そういう無能なものを役人にしておくことが最もよくない」と福沢諭吉は喝破した。
官僚が国民にとって足かせとなるのは、「すべて取り締まればよい」という規制権限にある。競争を避け、秩序を守るために業界団体を結成し、それを公権力が追認、取り締まるという仕組みを江戸時代の株仲間にその源流があるといわれる。
それは明治維新後も続き、隅田川流域にあった瓦焼き業者が株仲間を結成し、新政府にダンピングなど仲間やブリをやめさせてくれと嘆願、冥加(みょうが)金を差し出したという。昔から国民自身も一斉保護(規制)を望む風潮があるということに、官僚は規制を十手よろしく振り回し、国民を苦しめるのだ。
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