やさしい経済学 個人の再発見 東大宇野准教授 より、
気付けば35歳独身。女磨きをしておけば、いつでも嫁にいけるわ、と高を括っていた。いざ、婚活をしてみたら、自分が結婚市場ではどれだけ商品価値の低い女であるかに気づいた。emplyablityを高めようと、内外で勉強、挑戦を重ねると、「家に不在の女」となり、家を守る役割としては欠陥品になってしまうのだ。経済学的には、これを機会費用といい、女性が「家を守る役割」を引き受けることで、雇用される能力が落ちるリスクを高いと思うことで、晩婚化が進んでいたのだ。
これを個人の問題と片付けることもできる。しかし、結婚や育児、離婚した女性、職業訓練が不十分である人、年配者、外国人、若者など、個人の問題、特性が失業と深く結びついている今、社会駅問題と捉える必要はないだろうか。「個人の選択であり、本人の責任である」という問題の裏には、社会システムの構造的欠陥が存在するケースは多い。これを個人の問題にすれば、社会的不平等を個人化する、すさんだ社会になってしまう。
では、個人の問題は社会問題へ昇華することができるのか。宇野先生はYESという。エディプス・コンプレックスやアダルト・チルドレンのように、社会問題が信頼額のモデルで理解される傾向を進めることはできるのである。もちろん、カウンセリングなどで具体的に個別の問題を解決する動きも必要だが、個人の負担に依存しないよう、社会的次元で問題を捉えることが同時に求められるのである。
現代個人主義のキーワードとして「ナルシス的個人」があるという。個人の個性やアイデンティティが尊重される社会で、未来における社会変革に期待するよりは、むしろ私的領域における自己実現を追及する。公共的な価値や道徳的命題に基づく、権威主義的で機械的な統制は似合わない。しかし、ナルシス的個人の社会でも管理や統制と無縁ではない。最小の束縛と最大のプライベートな選択により効率的に社会を管理することが、社会的目標となる。
自分らしさにこだわり、他者への関心を失い、ひたすら狭い私的世界に閉じこもる個人。フランスの思想家トクヴィルは早くから個人が自己の孤独のうちに閉じ込められてしまう危険性を指摘した。トクヴィルは個人主義と利己主義は別のもので、利己主義はどの時代にも存在したが、個人主義は伝統的社会が解体した結果生まれた民主的社会に固有の精神であると説く。この孤立した個人には両面性がある。自分自身の狭いせかいに閉じこもるが、それゆえにむしろ他者や社会の動きを気にしている個人であるという。民主社会の個人の無関心さは同類に対する先鋭化した比較の意識があり、冷淡さの裏には他者や世間に対する激情が秘められている。
アダム・スミスは、利己心を軸とする『国富論』によって、利己心を正面から認めながら、自己完結したかに見える個人の仲にある、他者への関心やそれに基づく自己コントロールする能力、これらをつなぐことが求められると説いた。利己心と共感が結びつく理論を彼は主張していたのだ。
同じく「共感」によって、テロ対策をするべきととくのがジョシュア・クーパー・ラモ(『不連続変化の時代』)。自分が思うように相手を動かすのでなく、相手を共感してみるほうが得策。世界観を絶えず見直しアップデートすることは不確実性を増す現代において必須の営みであるから。
流動化し、不安定になる社会であるからこそ、個人の多様な思いに重きを置き、それを尊重してつなぐ。自己修正可能な共感の技法が求められている。
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