犬養毅首相の孫でカトリック信者であるという道子氏は、カンボジアの難民キャンプの写真をヨーロッパのデパートで見ているうちに、心地よく読めていた聖書の言葉が旨に突き刺さるようになったという「お前は何をやっているんだ」と。
難民支援では、現地に行って、相手と同じ立場にたって考える姿勢の重要性を実感するという。日本人には共感(コンパッション)と常識(コモンセンス)を磨き、自分の目で見て判断できる能力を磨いてほしいと発信する。
犬養毅首相の孫でカトリック信者であるという道子氏は、カンボジアの難民キャンプの写真をヨーロッパのデパートで見ているうちに、心地よく読めていた聖書の言葉が旨に突き刺さるようになったという「お前は何をやっているんだ」と。
難民支援では、現地に行って、相手と同じ立場にたって考える姿勢の重要性を実感するという。日本人には共感(コンパッション)と常識(コモンセンス)を磨き、自分の目で見て判断できる能力を磨いてほしいと発信する。
カルロスゴーン氏が語る。多様性の重要性について。マーケットが求めるもの、それはもはや画一的なものではない。同一の年代でも、異なる志向をもち、各々がアイデンティティを主張するものを選択しようとする。
そんな時代に組織に求められるのは多様性である。しかし、多様性は日本・欧米の文化圏の双方にとってチャレンジングな取り組みである。日本は、輪と権力を重視する文化である。角の立つ主張を避けてコンセンサスを得ようとする心理が働きやすく、多様な意見を吸収できない懸念がある。一方で欧米圏では、個の主張を重視する文化である。主張を重ねるあまり、議論に疲れ、合意に至らず、争いを続いてしまう懸念がある。
グローバル経済のなかで日欧双方の文化のはざまで、コンセンサスの難しさに直面することもあると思うが、双方のよさを総合するチャンスとしてぜひ積極的に取り組んでほしい、というのがゴーン氏の主張、そしてエールである。
NISSANという企業を通じて、日本に彼がもたらそうとしている多様性を尊重したコンセンサス形成のあり方を、ぜひ一緒に考えていきたい。
Inspired by Nikkeinews 20060407 経済教室『日本を磨く』
国家はどのように形成されるのか、以前のblogでも記述したが、言語や文脈を共有する範囲によって共有されるという。その点で、国家を成り立たせる要因としてメディアの存在を指摘する本稿は興味深い。
近代国家を支えてきたのは、「マスコミ」である。国民共通の話題、視点を提供する新聞やテレビの存在なしには、共同体性は崩れてしまう。ITの台頭にともない、国家も変容するというのが、西垣(東大)教授の主張だ。西垣氏によれば、「中央集権的な国家ではなく、分権的な自治州の連合体のようなものだ」という。一極集中国家では多様な情報を吸収しきれず、均一的な生産消費に傾きがちである。そのため、魅力ある文化や経済活動を生み出しにくくなる。アナログメディアの時代には、モノと情報が一体かしていたため、容易には操作できず、それゆえ中央拠点に情報と物質とを集積し、そこで枢要な情報処理と知的生産活動を行い、その結果を全国一律に提供することが安定した有効性を持つ。しかし、ディジタルメディアの時代には、一極集中によって標準化・均一化がされすぎると国民のユニークなアイデアや創意工夫がつぶされてしまう。
西垣氏は、「海外を含め極間で動的な融合が進むことが望ましい。ハイパー超多極分散国家を実現することである」と主張する。
ナレッジ・マネジメントの世界でも、組織や国家全体のパワーを高めるために、情報のハブをつくり、情報の再配布を行うケースが多い。それ以上に、大局的な視点から、動的な融合を生み出す支援を行うアプローチがますます重要になっていると解釈できる。
問題は、その支援策がどのようなものであり、そこで活動する人々がどのように振舞うべきかである。
Inspired by 20060406 Nikkeinews 経済教室
川勝平太教授の投稿『世界に誇る美の国に』より。国家の変遷を描いた興味深い文化論。日本はいまだキャッチアップ・システムを引きずっており、結果として米国型「富国(経済力)強兵(軍事力)」のモデルを超越できていないと指摘する。
日本は明治時代、横井小楠『国是三論』により新日本の建設に必要な「富国・強兵・士道(徳)」という要素が定義された。この考え方は天皇が統帥権を持っていた時代の考えである。欧州でも国王が主権を握っていた「主権国家」の時代には富国強兵路線がとられたものの、フランス革命で主権が国民に移り、その国民(の代表)によって地域間の闘争という不幸な結果を招いたことで、新たな路線を見出す動きが出てきた。悲劇を経験した欧州は、主権を一部譲り合い地域ky報道体を形成し現在の欧州連合に至っている。主権国家(君主主権)→国民国家(国民主権)→地域共同体という国家の変容には学ぶべきものがある。
互いに交戦をしないように、米国型の富国強兵路線を越える新たな力を、川勝氏は「文化力」と呼ぶ。この文化は、毛沢東時代の政治色のあるものではない。「ウェイ・オブ・ライフ」と定義される「カルチャー」である。生き方そのものを文化と呼ぶ考え方である。
日本にはハレ(非日常)とケ(日常)の文化があるが、これまでのように日本のハレ(学問・芸術・芸能など)の文化に視点を宛てるだけでなく、むしろケ(日常の暮らし)の文化に重心を置き、それが磁場のように他国の人々をひきつけ、求心力を持つようになることが文化力である。日本人の生き方があこがれられ、追いかけられ、模倣されることを積極的に目指すことである。
ハードパワー一辺倒の国家論、世界論を超えた、世界中の人材をひきつける文化的景観(日本人の自然との融合を志向する精神性が宿る場)豊かな美の国への創造的転換。アジア各国のモデルとしての期待も高い?
Nikkeinews 20060122 読書『女性と人間開発』に関する書評
格差に関する議論が高まるなかで、興味深い概念を知った。
ノーベル経済学者のアマルティア・センが編み出した、ケイパビリティ・アプローチ。平等、不平等を語るのに、財貨を持っている量や、効用の量ではなく、選択しうる生き方の幅(ケイパビリティ・潜在力)という多元的な焦点変数を設定すべきという主張である。平等を語るのに、普遍的な価値を与えようとすることはかえって抵抗を生み、社会を不安定とし、個人を不幸にするという考え方である。本書では、ケイパビリティのリストに次のようなものを掲げている。
?人生を最後までまっとうすること
?身体的健康(適切な栄養摂取、住居確保)
?身体的安全(暴力、性暴力、虐待の恐れがないこと、生殖に関する選択権)
?感覚・創造力・思考(考え判断できること)
?感情(愛せること、嘆けること)
?実践理性
?連帯
?自然との共生
?遊び
?環境のコントロール
こうした力をつけることが開発の目標であり、実践にあたっては、多様性を認め、弾力的、自主的に行うことを重要視している。多様性を実現する社会づくりの指標として、ケイパビリティ・アプローチがもたらす効用は大きい。継続して研究したい。
引用------------------------------
http://www.arsvi.com/1990/990000kt.htm
「センが強力に推進している《ケイパビリティ・アプローチ》をめぐっての問いかけ。これは、どれほどの財貨を持っているかでもなく、どれくらいの効用を感じているかでもなく、彼女/彼ができること・なれる状態、つまり「生き方の幅」(ケイパビリティ)でもって当人の暮し向きを評価するものである。ここで彼は、人間が自分の福祉の達成だけをめざすのでなく、他人の福祉や自分たちが帰属する社会のあり方にも無関心でいられない存在であることを強調する。たとえば、自分より福祉の水準が低い人に対して「済まない」(I'm sorry about him)と感じることがそうだ。さらに、現代の飢饉はせいぜい全人口の一割弱の住民に襲いかかる災禍に過ぎないのに、デモクラシーを採用する国ぐにで飢饉を防止する政策が多数派の支持を得るのはどうしてか。それは「餓死者が出るような社会に住みたくない」との望みが広く共有されているからに違いない。センはそう分析する。」
参考------------------------------
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4771014892/economic-22/ref%3Dnosim/250-1380815-3047458
『アマルティア・センの世界?
日経新聞の「ネットと文明」にまたまたInspiredされて、投稿。
昨今はblogから生まれた作品が、ビジネスやメディア等で転用、さらなる価値を生むケースが増えている。
「電車男」「のまネコ」・・、これらのネットで生まれた共創品は、多くのヒトの手によって磨かれることで、高付加価値な事業シーズともなる。この偉大な共有財を、ひとつの資本や企業が抱え込むことは、許されない。公共が、与えられるものから、創り出すものに変わるとき、公共のカタチにも変化が現れる。共創で生まれた公共資産を元手として、更なる資本投資や事業展開をいかに行うのか、新たな社会規範が求められている。
「公共の価値」を生み出す一方で、ネットは思想・信条の違いを誹謗・中傷によって表現する凶器ともなっている。芥川賞作家の平野啓一郎氏によれば、「ネットの中ではヒトの内面と外面の分離が進んでいる。人間性がむき出して社会の既範力が及ばない部分がある」と指摘してる。ドイツ哲学のユルゲン・ハーバーマスは、近代社会の成立条件を「市民が自由に議論し合える公共圏」に求める。多対多のネット社会は、その実現可能性を匂わせるが、一方に垣間見える凶暴性と私たちはどう対峙するべきだろうか
東京で働いていると、モバイルPCで仕事をする環境を当たり前のように享受している。先週の平日、一日を中伊豆で過ごした。その間に何度かPHS通信をしようとしたが、うまくつながらない。この間、私の仕事はストップした。せっかく緑の山々、輝く小川の中にいるのに、かばんのなかのPCが私の体内時計をあおる。
日経新聞の「ネットと文明」という連載記事に、「効率をおい、時間にあおられる」東京の暮らしが描かれている。駅前探索倶楽部の嘆き、「便利にするつもりが、社会全体の効率をさげてはいないか」。乗り換えに最適な時間、車両位置を詳しく提供する。その結果、乗客が集中し、混雑をあおる。マーケティングの分野では、全国一斉販売、全世界一斉公開という動きが増えている。世界同時共振手法の採用により、文明の多様性が損なわれる懸念が広がる。
東工大の本川教授によれば、「日本人一人あたりの消費エネルギーはヒトが生きるのに必要な量の四十倍」といい、生物として、高速社会についていけなくなっている現状に警鐘をならしている。
英エコノミスト誌のビル・エモット編集長は、「ネットで便利になるが、生産性はそれだけでは向上しない、『浮いた時間でどんな付加価値を生むか』という、新たな文明創造の取り組みが必要」と説く。文明に遊ぶ時間を作り出す、効率化手段としてのネット。体内時計を早め、人間らしさという文明蓄積を壊すネット。ネット時代を生き抜くために、この矛盾を乗り越える、新たな知恵が求められるらしい。ふーっ・・・?
友人と、『自分へのご褒美はいつ買うか』という話で盛り上がった。なかなか上手に自分へのご褒美が買えない私としては、他人様の素敵な消費志向に学ぼうと思ったわけである。
その話を男性の友人にしたら、「『自分にご褒美』という言葉は、他の人が買ってくれないから、自分でご褒美をプレゼントするという話に聞こえる」と指摘された。なるほど、それが一般的な感覚なのかもしれない。
しかし、実際のところ、大きな仕事を達成したとき、なにか節目を迎えたときに、「自分にご褒美」を買う女性は、「プロジェクト完遂の打ち上げ飲み会!」とは異なる意識で、ご褒美を買っているように思う。達成感を祝うためだけでなく、なにか自分らしい挑戦ができたときに、自分の成長の証として、そういったものを買っているのではないだろうか。
そんな折、企業についても同じような価値観があることを知った。話題のCSRである。CSRとは社会的責任(たとえば、経済的価値/社会的価値/人間的価値の実現)を果たしているかどうかを確認するもの。ISOでも明確に定義されることが決まったと新聞報道されていた。期待された役割、責任を果たすのはCSR。でも、どこもここも同じ役割や責任をはたすだけじゃつまらない。
前・経済同友会会長の小林陽太郎氏は、「効率と効果の違いに注目せよ」というユニークな提言をしている。「効果とは“∑効率+α”である。効果を高めるには、効率の向上だけでなく、価値観や行動様式といった“+α”の部分をつねに組織として問いつづけ、つくりあげ、社会からの信頼を獲得していくか・・・、それがこれからの企業には重要」というメッセージであった。
CSRのように期待されたことをこなすだけでは満足しない、自分らしい挑戦をし、その達成祝いとして自分にご褒美をプレゼントする。そこにあるのは、「他人からプレゼントされないむなしさ」ではない。「自分だけでほくそ笑む、至極の勲章」なのである。
先日の新聞に、フリーマガジンならぬ、フユー(富裕)マガジンが興隆しているという記事があった。富裕な消費者に特化した雑誌だが、「モノやサービスへの欲望と、精神性や知への欲求」の両面へアプローチした紙面に特徴があるという。実際、商品の紹介ページにも、ブランドの歴史物語やブランド企業の社長インタビューなど、消費者が関心のある商品について、一歩深く知識を増やすための記事が多いらしい。
「これは、ニューリッチ(新興富裕層)台頭の表れか?」と本記事は指摘する。日本は、所得格差が(海外と比較すると)小さいと言われているが、それなりに富裕層とマルビ層があって、経済的、社会的秩序が保たれていた。1980年代後半など、格差が拡大する時期もあったが、それでも秩序が保たれたままでの格差拡大であったという。「これに対し、2000年以降に勃興した富裕消費を担うのは、秩序を壊すカタチで登場したニューリッチ。IT起業家や成果主義で高額報酬をもらうスーパーサラリーマンが代表格となっている」という。
ここで興味深いのは、「消費に関するスキル」に関する記述。「父祖の代から『上質なカネの使い方』を目の当たりにしてスキルを磨いている旧来型富裕層と異なり、明らかな経験不足」。それを補うために、おおいに参考になるのが、富裕層雑誌なのだという。
富裕バランスと、経済・社会的秩序という面でいえば、負け犬族も新興富裕層といえるのかもしれない。けっして、ホリエモンのように「にわか大金を掴んだ!」という意味ではなく、旧来型の秩序のなかで、「女性で、自由に使えるお金を多く抱える」というカテゴリーは存在していなかったのではないかしら。
だから、負け犬族の「自分へのご褒美」「マンション購入」は奇異に映る。負け犬としては、ちょっとしたお金を前に、「上質な生活へ投資をしよう」という挑戦なのだけど・・・・。富裕に関する旧来からの経済・社会的秩序と、日本人の倹約を重んじるメンタリティを前に、共感される「上質なカネの使い方」を生み出し、スキルとすることは、知恵の求められる作業である。
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